脇浜のえべっさんの歴史

◆泉州最古の戎様 脇浜戎大社 例大祭 一月十日

遠浅の静かな波が打ち寄せる脇浜・二色浜海岸一帯は、古来より

豊かな漁場と白砂青 松の景勝地として知られ、奈良・京都の都に

近いことから宮中で食事などを司る『内膳司』という役所によって

御漁場が置かれていました。

平安時代の諸制度を記した『延喜式』に『和泉国・(網曳御厨)』と

その名前が記録されています。

『延喜式』によりますと、この地から毎月『子の日』と『巳の日』に塩漬の

鯛・鯵、干し魚や魚の内臓で作った調味料など二十石六斗を毎年都の

役所へ納入するよう決められていました。

 当時の戎社は、(網曳御厨)の守護として(創祀)されたと伝えられ、

(御厨)の領地内2ヶ所に『事代主命』が戎神として祀られてきました。

明治時代、(高龗神社)に合わせ祀られた後も、(御厨)の戎様は

泉州地方の人々から『脇浜のえべっさん』と呼び親しまれています。



和泉名所図會所載(江戸時代)

◆当、神社が白砂青松の中に描かれている。

◆舵を帆にした宝船

脇浜戎大社は脇浜・近木崎の戎社と加治村の嘉治穂神社を合祀していますが、

これは(嘉治穂神社)にまつわる伝説です。

ある時沖合に漁にでた船が、途中暴風雨に遭い帆を吹き飛ばされ皆途方に暮れていたところ、

『舵を帆にせよ」との戎神の御託宣があり、お告げのままに舵を帆にして

立ててみると、にわかに風雨おさまり一同大喜びで浜に帰りついた、と

(嘉治穂神社)の名前の由来となっためずらしくもめでたい物語が伝えられています。

船の舵を帆にして風雨をおさめられた戎様。

人生航路の荒波を鎮め、無事目的地に運んでくださる『舵帆の守護』の伝説は

千年の時を越えて、現在も脇浜戎信仰に生き続けています。

龍神さんの歴史

◆竜神様のお宮高龗神社 例大祭 九月二十二日

江戸時代、岸和田藩主自らしばしば雨乞い詣でた高龗神社は、

古来より水の神の社としてこの地の稲作の民に崇敬され、八大竜王社又は

龗の社とも呼ばれていました。

八大竜王は『妙法蓮華経』にあらわれる八柱の竜神で水を招く神々として

信仰され、高龗の神は雨乞いの竜神、闇龗の神は長く続く雨を止める竜神として

昔から日本各地で祀られてきました。

当神社は貝塚市を東西に流れる近木川の河口に鎮座しますが、

川の源の和泉葛城山の森にも龗の神が祀られています。

今では雨乞いの記憶もすっかり薄れてしまいましたが、

古来より高龗神社は穏やかな日々には葛城の森が育てた近木川の流水に養われ、

又苦しい旱魃の日々には口々に八大竜王に雨を乞い祈願と感謝を重ねてきた

この地の人々の心の拠り所でした。

近年は人々に恵みをもたらすため天翔け登る竜神様に、

家内の安全や開運を祈願する人が多くなりました。


持統天皇と倭舞

西暦七世紀、天武天皇のあとを継がれた持統天皇は

朱鳥四年(六九〇年)九月、紀伊国(和歌山)を視察されたのち

都への帰途二十一日、網曳御厨前身の漁場に立ち寄られこの地の民の

地引き網をご覧になりました。かって推古天皇によってその基礎を置かれたという

漁場ですが、壬申の乱等の長引く戦乱で荒廃したため、持統天皇は漁場の

再整備と拡張を命じられ翌二十二日天皇は現在の高龗神社で倭舞(神楽)を催されました。

九月二十二日はその後高龗神社の大祭日となり、この神楽は長い間

村人たちにより継承されてきましたが、明治の変動期にその伝統は残念ながら

途絶え、今は倭舞に使われた面などの一部が村の旧家に残されています。